青春ゾンビ、あるいはサマーコンプレックス

雑記

夏が好きだ。しかし夏の終わりは憂鬱である。

僕の中には確固とした正しい夏というものが存在する。

正しい夏は田舎町に帰省することから始まる。父親の運転する車に揺られること数時間、ウトウトし始めた頃に到着した祖父母の家は全面畳張りで、祖母が用意した夕飯のいい香りと線香の匂いが混ざった香りがする。

早くも祖父母の家での生活に飽きた僕が縁側でボンヤリしていると、小さい頃一緒に遊んだ女の子に祭りに行かないかと誘われる。この町のどこにこんなに人がいたのかと呆れるほど賑わった祭りを僕は左手にりんご飴を携えて練り歩く。ふと横を見るとただの友達として思っていなかった女の子がやけに大人っぽくみえてくる。

とまあ僕の正しい夏は、あの時こうしていれば実現出来たかもしれないと言った類のものでなく、完全に理想、妄想、空想である。僕の中の正しい夏というのは永遠に叶うことは無いにも関わらず、この歳になっても忘れらずにいる。だから毎年馬鹿みたいに、夏の始まりには今年こそ正しい夏がおくれるかもしれないと期待し、夏の終わりにはまた正しい夏をおくれなかったと後悔する。

さてこの世には青春ゾンビという言葉が存在する。青春時代にやり残したことが多くあり悔やんでいる人のことを言うらしい。

自分は正しい夏をすごしたことがないと思うサマーコンプレックスと青春ゾンビは高確率で同時に発症するものかと思う。どちらもありえない空想を想うが、決して叶わないし叶ってはいけない。叶ってはいけないのである。

青春ゾンビ、あるいはサマーコンプレックスはある種のアイデンティティである。ゾンビでなくなったり、コンプレックスが解消された時点でアイデンティティは死ぬ。

もし僕が過去に戻れたとしても、同じく冴えない中高生活を送るだろう。意を決して憧れていた青春、夏を送っても満足出来なかったらどうすればいい?正しい夏というのは実現不可能な夢だから希望を抱いていられる。

夏特有のイベントの多さ、夏休みという長期休み、天候から来る開放感など夏休みが青春真っ盛りの思春期の少年少女にとって重要な季節であることは疑いようがない。

歳をとって来ると小説や映画、アニメなどで正しい夏を摂取し、次第に自分の中の夏に虚構がまじり始める。自分の人生しか知らなければ青春ゾンビ、あるいはサマーコンプレックスにはなりようがないのだ。ありえるはずのない正しい夏というフィクションを摂取することで、自分の夏と比較してしまいサマーコンプレックスを発症する。

サマーコンプレックスについては敬愛する作家の三秋縋さんが著書「僕が電話をかけていた場所」のあとがきで触れている。「君が電話をかけていた場所」「僕が電話をかけていた場所」の二巻からなる小説は、サマーコンプレックスを刺激する良書なのでぜひ読んで欲しい。

もう夏も終わりが近いが、今年こそ正しい夏を送ろうと様式美的に決意をしてみる。

数ヶ月後にまた正しい夏を送れなかったと憂鬱になるまでがお決まりである。

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